気流診講座
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気感を得ることは潜象界への必須の技術
経絡や気は、経絡治療家にとってその治療の根幹をなす大切なものですが、そのいずれも目に見えることもなく、触れることもできないために、それらの存在を実体としてとらえることは非常に難しいものです。
気や経絡に関しては多くの解釈を生みましたが、現在でもその存在については、なんらの証明もされていません。
そして、その存在を証明できない以上、経絡を「ある」とすることは非科学的であるという意見が圧倒的多数を占めています。
ですが、「ある」と「ない」は対等ではありません。
現状のまま、ただ存在の有無を問うことは無意味であるということです。
さて、私自身にも気や経絡に関して、たとえ医療に関する事項に限ったとしても、その全容を到底整理することなどできませんし、経絡を知識として知ってはいても、実感をともなうものではありません。
しかし、経絡とはなにかということを考えますと、これだけ解剖しても最新の観測機器を用いても、なにもでてこないわけですから、まず実体を伴ったものではないのではないかと考えられます。
ですが、なにかが存在する。
そしてそれは生きた人体のなかに存在する。ならば、それを一種の生命現象の表れだと仮定します。
経絡を一種の生命現象だと仮定するならば、生命は生命によってのみ認識されるわけですから、経絡を感知するのはあくまでも人、つまり観察者自身でなければならないと考えます。
しかし、現状(通常の五感)では「気」の存在を感知することはできないわけですから、その観察のためには自己の感覚を変化させていくことが必要であると考えました。
それは直感的な経験に頼らない、という自然科学を一方におきながら、同時にもう一方に直感的、記述的な科学、直接体験を基盤におく一元論的な自然感も必要であるということです。
私たちがある現象を観察する場合の第一段階は「感覚にあらわれる現象」といってもよいかと思います。
この「感覚」という意味は、単に外界と自身を仲介する外部感覚だけではなく、直接の事実を知覚するための意識までも含めた身体的、思考的、精神的なものすべてを指しています。
そこで内的体験を知覚する能力としての内部感覚が必要となるのです。
それが気と経絡を把握する第1歩となると考えております。
我々の環境は変えられない、同じ空間の中で、太陽の光と空気に包まれて生きています。
ですが、その環境の認識の仕方は人それぞれで違う、というのが現在の生物学の考えです。
ところで、客観的な観察を行なっていると言える行為はすべて、観察する個人の意識と分けて考えることは難しいという考え方があります。
その行為は直接的には個人の外側では決して起きることはありませんし、また個人の領域を超えることも、外側にある現実の領域を把握することも全くできないという考え方です。
つまり観察の主体である観察者は、観察の対象から独立して存在できないということです。
これは直接目の前にある現実の経験が自己に内在するものではないとしたら、人はそれを認識することはできないということです。
すると、気や経絡に関しても同じことが言えると思います。
簡単に言えば、自身が気や経絡を何らかの方法で、実感することがまず必要ということです。問題はその方法なのです。
しかし、それができれば、気の正体がなになのかはともかく、自己の身体外の気や経絡の観察(感知)も可能になるはずです。
ところで経絡を感知するということとは別の目的で、私が取り組んできた事の一つに体の重心線と中心線を意識化し、動き(日常、非日常の不安定な動きを含める)の中で使いこなす、というテーマがありました。
その方法としては主に武道、古武道の稽古を参考にしておりました。
このテーマへの取り組みは当初の目的とは別に私自身の内部感覚を敏感にすると同時に他者に対して、以前とは別のある種の違和感を生じるようになりました。
違和感の感じ方は個々によって若干異なりますが、大抵は体のある部分が「気にかかる」という形で現れます。
その違和感が存在する部位は通常の四診によって得られる情報から導き出される異常(変動)経絡と一致している例が多いことに気がつきました。
この感覚は後日、気や経絡を感知しているのではないということが判明しました。これはまだ「気」と呼べるレベルのものではなく、経筋など物理的な器官を感知しているものと思われます。
これはどういうことかと言いますと、例えばどのような芸事であれ、ある程度のレベルに達した場合、同門の他の方のレベルや好、不調がある程度、見ただけでも、瞬間的に判断できるということに近いかと思います。
その時の判断というのは、自己の中にその芸事の情報技術を意識を含めた全身で把握しているからこそできるわけであり、体全体で感じ取ることができるのだと思います。
つまり自分の中に重心線や中心線が意識化できれば、他人の重心線や中心線のズレなどを鋭敏に察知できるということです。
「気」にも同じことが言えるのではないでしょうか。
もちろん、中心線と気とは違うのもですからこれによって「気」や経絡が実感できるとは言えませんが、この方向性で練習を進めれば、経絡を実感できるその一端が開かれるのではないかと期待しております。
さて、ここで大切なことは五感で感じるのではなく、体全体で感じる必要があるということです。
その事に気づかせていただいた先生の話をさせていただきます。
その先生は経絡治療を専門とする鍼灸師です。
先生は治療がうまくいったときには患者の体が輝いて見えると言われました。当時の私にはまったく意味不明でした。なぜなら、その先生は全盲の方だったからです。
当然、目で見ていたわけではありません。五感以外のなにか、で感じ取っていたのでしょう。
では、気や経絡を感覚化するために、ある特定の感覚をシステム化して修得しなければ、気や経絡を感じ取ることができないのかと言われると、そうではないと思います。
一言で言えば、特定の観察方法や、技術が唯一の方法ではないということです。
実際にいろいろな分野の先生方が、さまざまな方法で気を感知する技術を修得されています。
気の感知技術が多種多様にわたる理由として、人は野生動物と違い、生存技術に関する本能情報が退化してしまっているということが考えられます。
甲野善紀先生という武術家にお会いした時のお話ですが人は二足歩行という不安定性の中に安定を求めている、そこから武術の技法が発展しているのだというような事をお聞きしたことがあります。
しかし、よくよく考えてみますと人の不安定性は二足歩行のみならず、多岐にわたっていることが考えられます。
物理的な不安定性のほかに本能という閉鎖回路から自由であるという不安定性、これらが逆に人に文化や技術の発達を促しています。
東洋の文化が自然に身を委ねるという基本思想をもったのは不安定性の中に安定性をもとめた結果かもしれません。そこから心身不二という観点が生まれ、それを実際の体の感覚として確認するために丹田や気を発明したのではないかということです。
したがって、気や経絡も人為的につくられた記号という一面をもっています。ですから気の感じ方、言い換えるなら自然への取り組み方は個人個人の感性によって千差万別であり、それぞれが自己の感覚を頼りにつくりあげていくしかないのではないでしょうか。
望診法こそ潜象界からの情報を得る根幹技術である
古代に存在した望診法とは、ダイレクトに気と経絡を見る技術だったのではないかと考えています。
3000年以上前の診察法の言葉に「望んで知る、これ神」という言葉があります。
この言葉は現代では、見ただけで診断ができるのは神様のようなものだ、という意味に解釈されています。
しかし、この言葉がつくられた(約3000年前)当時の「神」という漢字の意味は現代のような神様仏様のような意味ではなく、
神=自然(の気の流れ)という意味であったのです。
つまり、「望んで知る、これ神」の意味は、まず望診で気の流れを見ましょう、という意味であったのだと思います。
ですから、望診は診察手順の第1にくるのです。
四診合算という言葉があります。
望診、聞診、問診、切診の総合評価で証決定をしましょうという意味にとられています。
ですが、古代の望診のあり方を考えると、四診合算ではなくて、四診はその手順どおりに並んでいるだけです。
最初に望診で気の流れを把握しましょう、次に聞きましょう(聞診)、問いましょう(問診)、切(触診)してみましょう、と続いていくのす。
診察の手順としてまず望診ありきで、ここで患者の体のバランスが自然な状態(元の健康な状態)からどれくらい逸脱していて、どこに異常があり、どこが治療のポイントかを把握してしまいましょう、とうのが望診なのです。
ですから、望診というのは、神業だという意味ではなく、通常の診察手段として、最初に来るべきものなのだと考えております。
この古流望診法を修得するには、潜象界へアクセスするための原初感覚を呼び覚まさなければなりません。
その訓練法を体系化しているのが古流望診法「気流診講座」なのです。